
- 旅の極意
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今年の9月に4年ぶりに海外に行って来た。タイのバンコクとアユタヤだ。コロナで旅行をしなくなっていたので、久しぶりすぎる旅だった。
旅といえば、私の心の師匠デビッド・ボウイが「あなたの考える完璧なしあわせとは?」と聞かれて「異国の街の通りで最愛の人と迷子になること」と答えていたことがある。しびれる回答! 大人な回答! 美しい回答だ。
場所なんてどこでもいい、好きな人と知らない街で、迷って時間を気にせずウロウロしたい。人目を気にせずキスをして、食べたことのないものを食べて、月明かりの下をダラダラ歩いて、バーボンを飲んで酔っ払って、ミュージカル「レ・ミゼラブル」の「民衆の歌」を大声で歌って。朝起きた時に後悔したいものだ。なーんてカッコよく書いてみたが、実際にはそんなわけにはいかない!
「えっと、海外って電圧ちゃうよな。タイってどーやったっけ」と久しぶりすぎて、世界中の電気の差し込み口に対応する電圧機を持っていることさえ忘れていた。
タイには30年ほど前に2回ほど行ったが、ほぼ覚えてなかったので初めて行くようなものだ。まずはガイド本を買わなきゃと本屋に行くと、コロナ禍で海外のガイド本の売り場が縮小されていて一冊しかなかった。「そっか〜 まだ海外旅行とかあんまり行かないんだなぁ。円安だし」という実感が湧いた。
日本中にインバウンドが溢れてるので、外国人を見慣れてしまっていたが、向こうから来るばかりで、こっちからは出かけていなかったのだ。
さて30年ぶりのタイ。2回目に行ったのは1990年代だがそんなに変わってない印象だった。相変わらずタクシーは値段の交渉しないと行けないし、買い物も値切るのが当たり前。食べる時も、歩いていても旅は生きる力を使わないといけないという事を思い出しながら、久しぶり感が抜けず、アップアップしながら過ごした。「知らん町で迷子なんかになってられへんわ」と心の師,デビッド・ボウイにツッコミを入れたりして。
迷子といえば、今回の旅中、携帯のアプリでずーっと地図を見て移動していた。自分の位置が分かり、ホテルまでの距離が分かるので実に便利だった。外国人がよく携帯見ながら歩いてる姿を見るが、これのことかと実感した。もう異国で迷子にはなれないようだ。
中華街に行った時に,生簀のある店で牡蠣や魚を食べたのだが、大きな亀がいたので「これも食べるのか?」と指先したら、店の人に怪訝な顔で「これはペットです」と答えられた。「いやいや食べるっていうてへんやん。ペットと食材一緒の生簀に入れとく方が悪いやろ!」と言いたかったがタイ語がわからないので笑って誤魔化した。日本人は悪食だと思われたかもしれない。
毎日,タイのビールを飲みタイ料理を食べて、タイマッサージに行き濃い4日間を過ごして思ったことは、数日の経験が心の肥やしになるという実感だった。いつもと違う生活環境は自分を見つめ直す機会だ。旅はやっぱりいい。行ける時に行かないと! 来年はどこに行こうかと頭の中で検索中である。