
- 記憶の人
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あれは今年の2月のことだった。私は短い芝居の作・演出をしていて稽古中だった。ある日、出演者の一人であるH君と天王寺の老舗の居酒屋に寄った。「ちょっと飲みたいね」という思惑が一致しただけで、とくに約束したわけでもなく、店を予約していたわけでもなかった。
お店も行きつけと言うわけではなく、昔から知ってるだけで行くのも久しぶりだった。H君が4月から就職するというので、その話を聞きながらおでんをつついての2人飲み、25歳の彼にとっては母親より年上の私と飲むのも緊張したかもしれない。
店はカウンターしかなく、私たちはⅬ字型のカウンターの真ん中あたりに座った。H君は私の右側にいた。当然、彼の方を向いて喋っていたので自分の左側に居る人の事はよく分からなかった。その左側に座っていたカップルのお客さんが帰った時だった。Ⅼ字型のカウンターの角に座っていたナイスミドルなおっちゃんが声をかけてきた。
「なぁ、僕のこと覚えてる?」と言うのだ。正直、私は俳優でもあるし、テレビや雑誌に顔も出している。40年近くそんなことをやってるので昔一回会ったことのある人とか、中にはどこかのパーティで一瞬遭遇した人とかが山のように居る。そのすべての人を覚えているわけはない。
「Aって、言うたら覚えてない? 昔、心斎橋で一緒にバイトしてたんやけど。ピザの店で」そう言い放った彼は業界の人ではなさそうだった。
「覚えてないかぁ。僕はよう覚えてるで、きみ、メチャクチャ変わった強烈な個性の子やったから」彼はそう続けた。心斎橋、ピザの店、確かに私は20歳の時に1年ほど「ヴィア・ポルタマリ」というお洒落な店でバイトをしていた。夜はワインとピザを出して、古いジャズのレコードをかける渋い店だった。
「さっき、ここに座って顔見たとたんにすぐ分かったわ。全然変わってないわ、その横顔」「なんか映画とか、演劇の話したりしてたやん。ほんまに個性的やったから忘れられへんわ」とA氏はさらに続けた。
どうやら本当に私の事を覚えていて、今日偶然会ったことを喜んでいるようだ。しかし私は彼の事を全然覚えてなかった。それでも話しているとバイトしていた店や、その当時のことはお互いに懐かしく話せた。どうやら同い年のようだった。
ということは、今年66歳。20歳と言うと46年前ではないか! えええ? そんな大昔のバイト先の女の子のこと覚えてる? 個性的だったからっていうだけで? と何度も思ったが嘘ではないようだった。いっそ「あの頃、君のこと好きやってん」とか言われたら納得もするが…そんな話は微塵も出なかった。
横に座っていたH君が「こっち向いてはったから見えてなかったでしょうけど、さっきからずっと見てはりましたよ」と言うし… どうやら私は40年前と印象が変わらないようだ。それはそれで成長しとらんやん! と猛省するが。
20歳の私は歌舞伎や文楽が好きで、そんな話ばかりしていた。映画の話もよくしたし、好きなシーンを絵にかいて皆に説明したり、コクトーやアポリネールの詩をブツブツ言ってたり、そうそう踊りが好きで振付家やソビエトから亡命してきたバレエダンサーのこともよく喋っていたと思う。東西の冷戦の歴史についても…確かにそう書くと20歳の女の子としてはちょっと個性的だったかもしれないが… 46年後に声をかけてくるほど変わってたのかなぁ? と今でも疑問だ。
ちなみにA氏は「次の芝居です。良かったら来てね」とチラシを渡したら、律儀に見に来てくれた。自分の人生の中でもかなり変わった体験だったが、お客様が一人増えたと思って喜んでおくことにしている。
うちの一番若い劇団員が、この話を聞いて私の20歳の時の写真を見せてほしいというので写メしたら「そら忘れられませんわ」と返信してきたが、私自身はボブヘアーの気のきつそうな女の子にしか見えない。