ホームへ戻る > エッセイ&コラム > 大阪ん♪ラプソディー > 大阪ん♪ラプソディー【第127回】
安部元首相の事件があって、宗教に関するニュースが多くなった。一応にしてみんな犯人に同情的だ。当然だと思う。親が自分たち一家の生活が困窮するほど寄付をしてたなんて残酷すぎる少年時代ではないか。宗教を選択する自由はあって当然だと思う。かつては違う宗教を信じているという理由だけで弾圧を受けた時代もあったし、世界では未だにそれで人が亡くなっている。だがそれはたとえ親子でも個人の自由でなくてはならない。
私は親と子供は「他者」であると思っている。ちなみにうちの母は私が子供の頃に「あんたの吸うてる空気までお母ちゃんのもんや」と言って私を殴ったことがあるが、その時に「この人と私は違う人間だ」とハッキリ悟った。
私の尊敬するアーティストがいみじくも言った。「神という存在は人間がデザインしたシンボルだ。必要な人には必要なものなのだろう」その通りだ。私は信心深い方ではないが、芝居を創ったら必ずお祓いをしてもらうし、人が亡くなったら手も合わせる。大阪人らしく商売の神様「戎っさん」にだって行く。ごく普通に気持ちが動くことはしているし、そのためにかかる費用だって当然払っている。
だがどこかの教会や宗派に寄付したりすることはない。どちらかというと現実的な医療機関などに寄付するようにしている。一番大事なのは今生きている人々、これから生まれて来る子供たちだと思っているからだ。
先日、知らないお寺から今年はお父様の47回忌ですよ。という報せが来た。亡くなった母が寄付をしていたお寺らしい。何のためにしていたのかは分からないがともかくご丁寧に葉書が来たのだ。「へぇ、親父が死んで46年経ったんや」素直に思ったのはそれだけだった。特に法要をしなくては! とか、お寺に連絡してせめてお線香代だけでも届けなくては、なんて1ミリも思わなかった。
父は本当に世の中を達観した人だった。「死んだら焼いて灰になるだけや。魂なんか残れへん」とハッキリ言う現実主義者でもあった。そんな彼が死んで46年も経ってるのに私にそんなことされたら「そんなムダ金要らんから、自分のために使いなさい。」と言うだろうと思ったからだ。
もちろん人それぞれなので、親のために立派な法要をする家だってあるだろう、大いにやればいいと思う。ただその時に、死者を慈しむのは生きている自分の気持ちを満足させるためだということを自覚して欲しい。
神はそれぞれの心の中に居るだろう。「人間だけが神を持つ」と言った人も居た。必要な時に必要な分だけ祈ればいい。自分の安心を買えるお金で買えばいい。飽くまでも人に迷惑をかけない程度に! それこそが個人の自由なのだ。