ホームへ戻る > エッセイ&コラム > 大阪ん♪ラプソディー > 大阪ん♪ラプソディー【第147回】
ちょっと変な芝居を書いた。対戸津は「僕と私の遠い橋」というタイトルだ。内容はひとりの女の子が天界で何度か生まれ変わった経験をもとに、一人称について疑問を持っていることを、阿弥陀様に相談するという何とも不思議なファンタジーである。私が書いた芝居の中でも最もヘンテコな一本だった。
日本人は日常的に男言葉、女言葉を使い分けている。大人言葉、若者言葉、子供言葉なんてのもある。自分のことを「〇〇ちゃんね、アイスクリーム好きなの」と自分の名前を自分で言うあれだ。それを役割語という。要するに自分の社会的な役割を心得た喋り方のことである。男なら「僕、俺」女は「私」と言うのが普通だと思っている。
これは平安時代から綿綿と続いてきたことであり、物語にも反映され現代につながっている。童話の中の老人が「桃太郎や、鬼ヶ島に行くと言うが、わしは心配じゃ。と言ったところで誰も不思議には思わないが、実際にそんな年寄り見たことある?と聞かれたら「はて?」と思うだろう。我々は象徴的な言葉を使う文化で育ったので物語と現実を切り離すことにも慣れきっているのだ。
アメリカのテレビのプロデューサーだったと思うが、世界で初めてテレビ中継された大統領候補同士のケネディとニクソンの対談を見て「人は見た目が55%、声や表現が38%、真実は7%しか伝わらない」と言ったそうだ。それまで人気がなかったのに見た目の良い素敵なケネディがテレビに映った瞬間、あっという間に有権者を獲得して大統領にまでなったことを皮肉ったのだろうが。テレビやネット無くして物事を語れない現代人にはこの割合が脳に沁みついているように思う。
55%の見た目を助けるのが38%の声や表現。今回の芝居で考えたいのはそこだった。役割語もここに位置している。例えば見るからに高そうなスーツを着た、素敵な初老の男性がいたとする。見た目で「お金持ちそう」と想像でき、その紳士が「私は医者です」と落ち着いた声で言えば、「ああ、お医者様なんだ」とすぐにその人の教養のレベルも分かる。お金持ちでお医者さんとなれば誰もが安心、信頼するわけだ。残りの7%の彼本来の姿なんて知りたいとも思わずに。
しかし、ここで「俺は医者だよ」と彼が言ったら?「え?なにこの人、いい感じの服装だけど、違うの?」と思うはずだ。「あたし、医者よ」なんて言い出したら完全に混乱するだろう。「私」「僕」「俺」「あたし」「うち」などなど… 自分を表すこの便利な役割語は他者に何も説明しなくても、自分の立場を表現できるようになっている。
でもこの便利さを裏側から見たら? 人の立場を決めつけ、利用したり、閉じ込めてはいないのだろうか? しいては日本が少しもジェンダーフリー化が進まない大きな枷になっていないだろうか? と思うようになったのが、今回の作品を書くきっかけだった。
「僕」と「私」の間に流れる深くて大きな河を日本人はいつか渡れるのだろうか。英語の「アイ」のようにみんなが同じ一人称を使う日が来るのだろうか。皆さんはご自分の使われる言葉に疑問を持ったことはありますか?