ホームへ戻る > エッセイ&コラム > 大阪ん♪ラプソディー > 大阪ん♪ラプソディー【第30回】
今年は阪神淡路大震災から20年目である。テレビ局も各局特集を組むようだ。
今、日本人の「あの日、あの時」というと東日本大震災なのかもしれないが、やはり我々には20年前のあの日のことが先に来る。
東京で数年暮らしていた私はあの地震がただの揺れじゃないことはすぐに分かった。しかし、うちの旦那をたたき起こすと寝ぼけて「もうええやん、一緒に死のう」とケロッと言い放ってまた寝てしまった。多くの関西人がそうだった。大きな地震を体験した事がないので、危機感がなかったのだ。
それからあの時に一緒に芝居をやっていたメンバーにもすぐに電話した。あの朝はまだ通じていた。仕事でNHKに向ったのだが、神戸に行く高速のある道を渡らねばならず、永遠とも思えるような緊急車両を見ながら、まったく動けない時間を過ごした。
もうただ事ではない。私は少し震えたように記憶している。やっとの思いで局に入ったが番組の収録どころではない。人は沢山居たのだが、どうにもこうにもならなかった。
歩いて実家の母の様子を見に行ってみた。母方の親戚は全て神戸方面なのだ。母の背中越しにある下面が目に入った「あ、ここ」と声が出た。
それは高取駅の周辺で、叔母と従兄弟が住んでいる、まさしくその場所だったのだ。「お母ちゃん、おばちゃんとこや」黒い煙に包まれた駅周辺を見ながら固唾をのむ思いで立ち尽くしていると、母が食べていたうどんを勢いよくすすり「生きとったら会えるわ」と言い放った。強い…なんじゃこの人。強すぎる。
と改めて戦争体験者の強さを実感したものだった。
なんでも母と叔母は戦争中に一緒に電車に乗っていたら空襲があり、お互いに逃げて、5年間も消息が途絶えていたらしい。
実際にあの時は、叔母たちは大阪方面には下りて来れず、岡山の親戚の方へ逃げた。連絡がとれたのは10日後だったが、母だけは「早ぅなったなぁ。あの時は5年かかったのに、10日で連絡とれたがな」と喜んでいた。
先日の東日本大震災の当日は東京で芝居をしていた。携帯で震災直後からみんなで連絡を取り合い、劇場に集結してのだが、本当に早くなった。
だが、それだけに連絡が取れない時の恐怖感も半端ではない。最近の日本人はちょっと異常に連絡しあう。大切な時もあるが、少し怖いと思うのは私の性格だろうか。
あの時から20年。相変わらず災害の多い国である。自分が成すべきことを再確認しておきたい。